みんなみんな生きているんだ

みんなみんな生きているんだ

ただただ垂れ流す、それだけの事

視野を狭めるという選択肢

交遊関係について『もっと視野を広げた方が良いよ』『色々な人と関わった方が良いよ』という話はさまざまなところで耳にする。

たしかに見聞を広げることは、『思考のベクトルが合っているか判断する際の判断材料を増やしうる』という面においては確かにプラスに働くことが多い。これはぼくも思う。

 

しかしながらそのことをもって、関わる人をどんどん増やしていくことはどうなのだろうかとブレーキをかける自分自身について最近考えている。

 

関わる人の数が増えるということは、さまざまなしがらみが増えることでもある。

当然増えれば増えるほど新しくなにかをするのに制限がかかる。これが難しい。

体力や気力が充実している時はそれでもなんとかなる、そのパワーをもって解決できるからだ。しかしながらより大きなパワーを消費することに変わりはない。

ぼくなら関わる人数が増える前より消費量は大きいのだ。当然すぐバテる。

バテたらどうなるか??増やしすぎたしがらみの反動で身動きが取れなくなるのだ。

 

さまざまな人の思いが見えてしまったり、見えなくともそれについて思いを馳せてしまう、そんな傾向があるのはぼくだけでは無いだろう。気づけなかったらどんなに楽なんだろうなって思うよな。

 

なので最近はそれで身動きが取れなくなるなら『体験する前に視野を広げようとせずに、いっそまずは視野を狭めてはどうか』とかそんなことを考えている。

何かについて一度考えるのをやめて思考停止でやりたいことをしているのだ。

前よりは楽だ。人の思惑とか知ったこっちゃなくてただ目の前のことを処理するのがメインだからだ。

まあそれでも他者について全く気にならないわけでは当然無いが。

 

視野を狭めてみて目の前から真っ先に消えつつあるのはレビュー的な評論だった。

『冷静に物事を判断する』ってのを意識するあまり、こういうのを以前は意識しすぎてしまってたのかもしれない。

ぼくの中のニーズと他者にとってのニーズが違うからそんなガッツリ見るものでも無いのにな。

 

こういう視点的なのをなるべく減らそうとして驚いたのは精神が小学生の時のぼくに近づいてきてるということだ。

『○○やろうぜ!!』『うおおお!!かっけえ!!』『あれすごいなあ』って感じに語彙力無い感想ばかりになってしまったが日々が楽しい。今まで無理に色々なことを見ようとして逆に見えないものが出てしまっていたのかもしれないな。

 

 

 

最後に最近色々なことありすぎて脳がバグってるので、こういう切り替え方が常に出来てるわけでは無いんだけど、今後も時折こうやって切り替えられたら良いなって思うのでした。