『枯れ葉のざわめき』
『この車、なんか丸っこくてライトの部分も含めてなんかかわいいね』
車に対して時折評する台詞のうちの一つである。
世の中における景色はさまざまな表情に溢れていて、それらは今の自分のメンタル次第で変化するものだと思う。
調子の良いときのぼくなら風で木が揺れることに対して躍動感を感じたし、見てると元気になったものだ。
しかしシューベルトの魔王の歌詞では枯れ葉のざわめきなどを魔王の言動に例えていた。
今のぼくの感じ方はどちらかというとこちらに近い。
風によるその葉のざわめきが胸をカリカリ カリカリとかき乱してきて、時折苦しくなるのだ。
するとどうだろう、遠くに見える山の影のつき方まで心なしか誰かが自分を咎めているか見えてくるような気がしてくる。
実際にはそんなことないのに。
この感覚をさらに強めた状態が以前の自分で、今の自分は長い目で見ればそれと比べたらだいぶ調子は上向いてきている方である。
今は長期傾向的には上向きでも一時的に軽く下向いてる時期なだけなんだと思う。
("N"というアルファベットを20°くらい右に傾けて両端の縦棒を長くしたイメージみたいな図)
最近時折こうやって文章として残すのは、後々自分がどんな精神だったかを後で見返すためである。後で見返して(ああ今は少しだけ落ちてる時期なだけなんだな)って納得して落ち着かせたりするためにね。
話は戻るが冒頭では世界の景色の見え方の違いを例に出したが、大事なのはそこでは無いと思ってる。
これはあくまで例であって、今思うのは、対人関係にも同じことが言えるんだろうなあってこと。
友人のちょっとした言動、以前は許せたはずなのに今はちょっとキツいってのが最近時折あってね。
友人は今までどおりの感じで発言してるのは分かってるし、そこに悪意とかは多分無いんだろうけど、自分の調子的な意味で感じ方が変わってしまってだろうことがただただキツい。
仕事とかならしゃーなしとしても、プライベートならこういう時に無理に関わり続けてもろくな結果にはならない。
そう過去の自分が告げてくるんだ。最近ね。
なので少しの間、自分の間合いをキープしながら人から距離を置こうとする場面が割と出るかもなんだ。すまんな。
今の状態で無理に関わって周りに迷惑かけるわけにもいかないしね。
落ち着いたら、もし良ければまた関わってくれたら嬉しいなって思うのは贅沢なんだろうな…申し訳ないなあ。
ちょっと元気な時にはキャス聴きに行ったりなんかしたり。そういうところからまた慣れていこうかと思うよ。
また今日からぼちぼち頑張るべ。