『水筒』
いつの日からだろうか?ぼくの水筒に麦茶しか入れなくなってしまったのは。
昔からだろうか?いや違う、幼少期のぼくの水筒には温かい紅茶やポカリを入れる選択肢があった気がする。
さらに言うならば幼きぼくはあったりとした麦茶でなく、それよりも甘い紅茶やポカリを好んでいたような気がする。
時の流れによる変化というのは大きなもので、以前だったら毎日のように連絡を取っていた相手にももう一年、いやそれ以上連絡を送った記憶が無い。
これはあれが悪い誰が悪いとかでなく単純な巡り合わせだ。お互いに楽しくやれてるなら、あんま無理に繋ぎ合わせる類いのものなんかでは無い。
もし縁があればいずれまた関わることになる、それだけのことだ。
世の中には再会と称して、こちらが一方的に不利益になる事柄を押しつけにくる輩は多々いるし、散々見てきたけどそうはならない人だろうしそこは信用してる。
ただ価値観が合わなくなっただけのことだ。
人間関係が水筒みたいなだと思うのは中身が変わることだけではない。
その容量についてもそうだ。
水筒の容量には限りがあるように、人間も無限に関わる人数を増やすことは出来ずどこかで限界が生じるんだと思う。
『別れがあるから出会いがある』って言う人は恐らく、この""水筒の容量が空いたわ""って感覚なのだと思う。ぼくもそう思うしな。
例えば学生時代に築いた人間関係をカルピスとすると、今築こうとしてる人間関係はオレンジジュースなのだと思う。
カルピスを全て捨てたわけではなく、かといってオレンジに変化してないわけでもない。
どちらかだけで構築出来ないんだなって今思ってる。
昔の自分を知る人と今の自分を知る人。
昔の考え方を受け入れてくれる人と今の考え方を受け入れてくれる人。
昔の自分を諌めてくれる人と今の自分を諌めてくれる人。
今考えなきゃいけないのは、そのバランスをちょっくら考えないといけないのかもなあ。
めっきり関わらなくなった人のことを思い出しはしたものの、そんな感じに考えられるようになったしぼくも前に進んだんだなあって思う夜でした。プラベ楽しみだけどその前に夕飯食べます。