『傘』
『自分の身を犠牲にして他の何かを守れる人は強い』
世の中にはそんなことを言うことを人がいるけどぼくはそうはなれそうにない。
自分の身を呈して守ったあと、守られた側の人はちゃんと強くなるのだろうか?
仮に私が守られた側の立場だったとして、次にその存在を身を呈して守れるのだろうか?
もちろん守られた直後はその存在に感謝し、お礼も言うし何かしらのお返しをすることもあるだろう。
それが礼節だと一般に教わってきたことだからだ。
だけど『次は守られないくらい強くなろう』または『守られない状況を作ろう(減らそう)』というベクトルで考えることって稀なんだよな。ぼくだってそうだ。
そんなことを雨の日に傘をさしていると思う。
傘は身を呈してぼくらが濡れないように守ってくれるが、ぼくらの中には晴れた日には存在を忘れそうになるくらい記憶から消す人もいる。
もっとも、そんな人も雨になるとその存在を急激に思い出したり、状況によってはその存在がいないことを嘆くわけだが。
傘というのは例えにすぎない。
だけど傘のように何かあったら力を貸してくれているのに、こちらから何か恩を返しきれていない、そんな存在がまだまだいると思うのだ。
それは無機物に限らないし、なんなら""そういう身の回りの人""を見落としてしまっているんじゃないか、と自分で考えては自分の無配慮に悔しさを感じる時がある。
それが雨だ。
晴れたらこうやって考えていることすら忘れて、また過ごしていくんだろうなって思ってはまた次の雨の日に同じように嘆くのだ。
傘は強いよ。そんな処遇なのに力強く何かを守っているんだから。
継続的にそうやって何かを守れる存在になれるだなんて自惚れちゃいないけど、
局所的急場的にでも何かの助けになれる『葉っぱ傘』みたいな存在にどこかでいずれなれたら良いなあ。
そんなことを考えてたら雨が弱まってきたよ。おはよう。ただいま。
今日もどこかでなにかをやっていくよ。